学生時代はほとんど耳にする事のないくせに、社会人になるとやたら耳にするこの言葉、暫く好きになれなかったし、今も妙な違和感を感じるものだ。
学生時代から会計士”先生”としてキャリアをスタートしてしまった自分は、何かにつけこの言葉がよくわからない足枷に使われることが多かったからだ。どうやら、キレイなシャツを着てパソコン作業をしていると泥臭い仕事は出来ないだろうというのが世間の相場らしい。
私の実家はアパレルプリント業で、泥ではなかったが、埃とインクに塗れて作業をしているのが当たり前の風景だった。別にそれが誇らしいことだとも思わなかったし、逆に尊いことだとも思わなかった。
今の自分ならもう少し相対的に捉えらたのかもしれないが、少年の世界は狭いもので見ている光景が全てで、それでいて何も疑問を感じない当たり前の世界だったのだろう。
会計士先生になると急に恭しく扱われ、社会のイロハもわからないままタクシーの後部座席に乗せられる。それはインクまみれの世界にいた少年からはよほど不思議な世界に見えた。でも世の中から見られる自分の姿は、その心にあるのではなく、具現化された姿なんだとすぐに気付いた。
会計士の仕事が合わずに営業職やらで転職活動を続けるとやたら聞かれるこの質問、「君は泥臭い仕事が出来るのか?」。コンサルや投資銀行も含めてありとあらゆる会社で聞かれた気がする。
何を言っているんだこの人は、そもそも泥臭いって何のことだ?なんて訝しんでいたが、泥臭さ(に加えて色々な要素)が足りなかったらしい自分は100社近い会社に落とされた。
他にも原因はいくつも考えつくのだが、うちの1つとして私からは泥の臭いがしなかったのだろう。
話は逸れるが、監査法人時代に車内の先輩に憧れ、先輩の好きな落ち葉を集めに九州だかどこかに落ち葉拾いに出かけた部下がいた。落ち葉から泥臭い臭いがしたのかどうかはわからないが、会計士の彼は落ち葉の臭いを感じながら箱詰めをしていたとは思わない。きっと夢中でそれどころではなかっただろう。
そんなものだと思うのだ、結局。
夢がある人間にとって、そのプロセスにどんな臭いがするかなんて全く関係ないだろう。自分の眼の前にある作業からどんな臭いがするかなんて考えてたらやってられん。
でも、逆にだからこそ、自分が取り組む目の前のプロセスの先に何があるのかあるかを意識することは大事なんじゃあないか。
なんてまとめてみる金曜日。
そんじゃーね。
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